院長より『ちょっと一言!』
過去の一言:2006年4月 記録的豪雪と当院への影響 / 2007年4月 旧病院跡地が立派になりました! / 2007年7月 感動の出会い2007年10月山古志村から生きる力をもらいました /2008年3月飯島南小学校から車イスが寄贈されました
旧病院跡地が立派になりました!
先日ナイス土崎店の開店祝賀会が土崎のホテルで行われました。我々医療関係者は経済界の人たちとつきあうことは滅多に無く、
従ってこのような催し物にも参加することは無いのですが、このナイス土崎店の敷地は我々秋田組合総合病院の跡地でしたので特別の思いがあり、
内覧会も含めて出席いたしました。
昭和7年2月に開院した秋田医療利用組合は、悲惨な農村医療を守るために零細な組合員が拠出した資金をもとに、秋田旧市内で医業を営んでいました。
ただでさえ医師不足の農村地帯でしたが、太平洋戦争が始まると医師はどんどん招集され、都市部でも医師不足になりました。
秋田県医療組合協会が官立医学専門学校を誘致する運動を、昭和17年に秋田県、県農業会、市町村などを糾合して行っておりますが、機は熟せず徒労におわりました。
しかし戦争が末期に近づくにつれ、男性医師はさらに払底し、しかも青森県、群馬県などが相次いで女子医専を設立したので、
秋田県でも県立女子医学専門学校の設立が企画され、その付属病院として秋田組合病院が接収されました。そして昭和20年4月に第一期生が入学します。
当然、秋田組合病院は病院を失ってしまいますが、土崎診療所では医療を行うことが不可能であり、代替え病院として、
秋田市土崎港旭町字旭受、産婦人科病院を買収し、この地で医療を行うこととなりました。
移転して2ヶ月後、昭和20年8月14日、まさに終戦前夜に土崎大空襲の医療現場となることは一部の人間を除いては想像だに出来なかったことと思われます阿鼻叫喚の野戦病院となりました。
土崎で開業当時は本当に手狭だったようで、、昭和27年頃の情景を下記のように伝えています。
「病院は土崎港旭町琴平町の大通りに面したしゃれた建物だが、私立産婦人科病院だったので実に狭い。裏玄関脇の事務室に至っては6.8平方メートルの狭さ。
満床に入院患者相次ぎ、おまけに近くにできた予備隊診療云々。本院の医師数7人、病床55。当時診療所を新屋、大久保、脇本、男鹿中、野石、天王」と記載されております。
看護学校の併設、昭和40年にはコバルト照射装置を導入し癌センターを併設、昭和50年には透析センターも併設しています。
医療の発展進歩により病院は増築を繰り返し、430床の総合病院として診療を拡大していったのですが、
医療の一段の高度化に対応するためには施設の狭隘化は免れず、平成8年から移転計画が進展し、
平成12年6月に現在地飯島西袋に新築移転することとなった次第です。土崎に病院を構えて55年、
地元の皆様から組合病院を面倒見て頂きました。心より感謝申し上げます。
ナイスの売り場から琴平神社の方角をみると、様相が一変していて、本当に整った住宅地に変貌しておりました。感慨一入でした。
また旧病院正面には整地された住宅予定地がひろがり、今後のあらたな発展が約束されております。
移転して7年、空洞化した跡地を見るたびに胸が痛くなり、一日も早く有効利用していただきたいと念願しておりましたが、漸くその責任から開放された気がいたします。
ナイスとそして近隣が今後益々栄えることを祈念して稿を閉じます。
秋田組合総合病院


